巻尾山仙藥院施福寺
巻尾は西國巡礼第四番の札所也
観世音三十三身に變して利益を施し給ふ因により三十三年目に開扉あり
其時は難波津堺の町及ひ遠近より詣人多くして此山の賑ひなるべし
巻尾山施福寺
西國巡礼第四番札所也
槇尾門前
槇尾山にあり已前は眞言宗近年寛文年中より天台宗と成
西國巡礼所第四番なり
本尊弥勒佛
丈六
文殊
左の𦚰に安す
長五尺
千手観音
右の𦚰に安す長五尺
法海上人霊驗を蒙りて彫刻す所也
又側に四天王を安す
阿弥陀堂
本堂の南にあり
不動堂
本堂の戌亥にあり
大師堂
弘法大師を安す
本堂の北にあり
巻尾神社
本堂の南上壇の地にあり
當山は巻尾明神初て鎭座したまふ霊地也
貞観六年秋七月從五位上を授く
開基行滿上人
時代詳ならす
妙法嶽
役小角法華二十八品を分け葛城の峯に置き當山には不輕品を収む故に妙法嶽といふ
卒塔婆峯
本堂の西四町許にあり
大僧正行基懺悔秘法の卒塔婆を立此ゆへに名とす
捨身嶽 隱水
倶に本堂の南にあり
弘法大師石渕の勤操を師として當山にて落髪し延暦年中滿願寺を建て手自彫刻の千手観音を安置し求聞持の法を修す
此捨身嶽隱水等は弘法大師の遺跡也
清水瀧
本堂の西廿町許にあり
兠卒嶽
本堂の北にあり
柴手水
不動堂の前にあり
當山に水乏しければ弘法大師神咒を誦して祈り給へは清水忽湧出るこれを智恵水といふ
又檜の枝を椿の上に投て誓ツて曰我願ひ空しからすんば此木栄ゆべし宣ふ
果して繁茂す今椿の木檜葉生したる木此山に多し
覺超塔
兠卒嶽にあり叡嶽の覺超は當國素生の地なり遺言によりて骨を當山に藏む
𠮷祥院舊蹟
當山にあり傳ニ曰むかし𠮷祥天像を本尊とす又愛染堂あり倶に遺跡今なを存せり
後世天女の像を日根郡近義郷𠮷祥園寺に遷す
名産松蕈
槇尾松尾の二山より出る味佳也又茶の名物なり多く父鬼村より出す
夫當山は四岳八峯層鸞蒼翠として宛蓮華の如し山中に四十八瀑三十六洞あり
むかし弘法大師沙門勤操に逢て落髪し虚空蔵求聞持の法を受沙弥の十戒を授り三論を究め槇尾山寺に在て初の名を教海又如空と改む
延暦十四年東大寺の檀に登て具足戒を受又空海と改む其薙染の黒髪當寺の什寳にあり
又空海渡唐の時青龍寺の惠果阿闍梨より傳來し給ふ眞言秘密の論書又帰朝の時平城帝へ奉りし將耒上表あり
又後鳥羽院の院宣後堀川院の宣旨これみな寺田免除の證文也
四條院延應年中には横山の郷を以て灌頂の用途として仁治元年に灌頂堂を建給ふ
後深艸院は建長二年に別當前大僧正行遍をして結縁の灌頂を修し給ふ
同三年には宣陽門院の御願によつて万花万燈會を行れ其用途として𠮷見の免田を配せらる
同門院巻尾寺の兒十一人を伏見御所にめして五雙の童番を勤さしむ御見聞衆には鷹司女院近衛殿下兼經公也
正嘉の頃には後深艸院御寄附の法華經これは後白河院常に御讀誦の經書也金銅の阿字同愛染明王并に種子千躰同普賢像不動尊佛舎利三粒宝塔に籠られ當山に収給ふ今寺庫にあり
又弘法大師より傳教大師へ贈らる書艸一通當寺にありなを霊佛什寳擧るに遑あらず
今坊舎七十宇ありて免除の租税纔六万石なり然れども山林若干廣ふして樵夫を業とし近郷の農家にこれを交易す
春は柳の糸緑にして初花匂ふ頃より諸國の巡礼連り詣して堂前に向ひて詠哥を唱へあるは坊中に宿かりて一山の賑ひ也
抑此山は當國の髙山にして路邃ふして雲封し日の出る事遅し
和泉の方より登るには溪川を右にし左にして道狹からず
後山よ河内路へ
これを巡礼道とて難行の一ツなるべし
これより瀧ケ畑といふ所へ出て天野光の瀧髙野山の街道也
山嶺は劉阮が藥を采し天台山に比して雲竇山に滿て鳥雀なく水聲澗に添ふて笙簧あるの霊鸞にして眞に殊勝の寳閣なるべし
今に見る槇尾山 施福寺(槇尾寺)
施福寺
札所本尊真言:おん ばざら だらま きりく そわか
ご詠歌:深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)松原わけゆけば 巻の尾寺(まきのおてら)に駒ぞいさめる
歴史
創建伝承
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代(539年 – 571年)に播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。
札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。
宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。
この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが寺僧たちはそれを拒んだ。すると客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。
縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。
役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある[注 1]。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時に槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている。縁起には、延喜16年(916年)に定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、史実か否か不明である。
以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。
中世以降
正嘉年間(1257年 – 1259年)に後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている。仁治年間(1240年 – 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。
最盛期には1,000もの塔頭が建ち並んでいたといわれる。
南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、後に豊臣秀頼の援助により慶長8年(1603年)に仁王門を始めとする伽藍が復興された。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間(1624年 – 1645年)頃に真言宗から天台宗に改宗し、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
当寺には、日本唯一の足の裏を見せている花山法皇足守の馬頭観音と、日本唯一の方違大観音という観音像が安置されている。
参道入口の脇には満願滝弁財天社がある。
境内
麓には駐車場があるが、本堂(標高475m辺り)に至るには標高280m辺りの駐車場から約1キロメートル(約30分から40分の登山)もの急峻な階段を登らなければならない。西国三十三所のなかでも厳しい参道として知られる。槇尾山付近のハイキングを兼ねた参拝者が多く見受けられる。
■本堂 – 弘化2年(1845年)の焼失後、安政年間(1854年 – 1860年)に再建されたものである。本尊は、弥勒如来坐像、右脇侍[注 4]に十一面千手観音立像、左脇侍に文殊菩薩立像を安置し、このうち十一面千手観音が西国三十三所の札所本尊となっている。西国札所巡礼の中興者とされる花山法皇を馬が道案内をしたと伝えられており、本尊と背中合わせの後堂(本尊の裏側)には足の裏を見せている馬頭観音坐像が安置されている。また、方違大観音坐像、元三大師坐像、伝教大師坐像、涅槃釈迦如来像など多数所蔵。
■庫裏
■大師堂
■護摩堂
■鐘楼
■観音堂 – 西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像を祀る。
■槇尾明神
■愛染堂 – 弘法大師御剃髪所跡。空海が得度して剃髪したとされる場所で堂内には愛染明王像のほか、勤操と空海の像が安置されている。西国愛染十七霊場第15番札所。
■弘法大師御髪堂 – 空海の剃髪した髪が祀られているとされる。
■虚空堂
■大日堂
■十三重石塔
■塔頭寺院の跡(石垣のみ)
■姿見の井戸
■仁王門 – 慶長8年(1603年)豊臣秀頼により再建。
文化財
重要文化財
■槇尾山大縁起(正平十五年筆写) 1巻 – 南北朝時代の作。重要文化財(書跡・典籍)。1904年(明治37年)2月18日指定。大阪市立美術館寄託。
大阪府指定有形文化財
■不動明王及び二童子 – いずみの国歴史館寄託。
■施福寺参詣曼荼羅図(甲本)1幅 – 大阪府有形文化財(美術工芸品・絵画)。京都国立博物館寄託。1992年(平成3年)3月29日指定。
和泉市指定有形文化財
■地蔵菩薩立像 – いずみの国歴史館寄託。
■千手観音立像 – いずみの国歴史館寄託。
■地蔵菩薩立像 – いずみの国歴史館寄託。
■慈恵大師坐像 – いずみの国歴史館寄託。
■大日如来坐像 – いずみの国歴史館寄託。
■牡丹唐草文三足香炉 – いずみの国歴史館寄託。
■桐雪持ち笹文様唐織小袖 – いずみの国歴史館寄託。
行事
■1月8日 – 碑伝木建て
■4月21日 – 弘法大師御影供
■5月1日から15日 – 開扉法要(年1回の札所本尊開帳)
■8月9日 – 観音千日会
■毎月18日 – 観音法会
前後の札所
西国三十三所
3 粉河寺 - 4 施福寺 - 5 葛井寺
和泉西国三十三箇所
1 施福寺 - 2 佛並寺
西国愛染十七霊場
14 宝山寺 - 15 施福寺 - 16 福智院
神仏霊場巡拝の道
51 太融寺 - 52 施福寺 - 53 水間寺
関係する寺社
■槇尾山明神社
和歌山県伊都郡九度山町にある社。『紀伊続風土記』によると、弘法大師は槇尾山で修行中、弁財天を信仰し日参していた。高野山を開いた後も月に九度、槇尾山に参詣した。しかし、「ある日のこと、九度山まで下りて来た時、吉野川が増水し、渡河に困っていたところ、弁財天が現れて「この地に我を移し祀れ」と告げたと云う。弘法大師はこの山に弁財天を移して祀り、槇尾山の篇額を掲げた。この時より社を槇尾山明神社と云い、傍らに別当寺を建立して槇尾山遍照寺と名付けた」と記されている。
所在地
大阪府和泉市槙尾山町136
アクセス
南海本線 泉大津駅より駅前1番乗り場・阪和線(JR西日本)和泉府中駅前2番乗り場・泉北高速鉄道 和泉中央駅2番乗り場の南海バス31、37系統「槙尾山口」行き、33系統父鬼行きで「槙尾山口」下車。徒歩1時間30分程度。もしくは槙尾山口手前の「槙尾中学校前」で下車しオンデマンド交通「チョイソコいずみ」に乗り換え、終点「槙尾山」下車後徒歩30 – 40分。
南海高野線 河内長野駅から日野・滝畑コミュニティバス「滝畑ダム」で下車後徒歩2時間。
阪和道の岸和田和泉ICから国道170号(大阪外環状線)へ出て、槙尾中南交差点を右折、府道228号で「槇尾山観光センター」駐車場(普通車で約100台)ここから数十メートルで槙尾山登山口へ、ここから8丁約30分の登山道。
周辺
満願滝弁財天 – 槙尾山登山口付近にあり、満願寺不動尊や落差約50mの満願滝がある。
[出典:ウィキペディア フリー百科事典 施福寺]
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